「出題者の意図を考える」ことは、ただの受験テクニックか?

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 こんにちわ、ぺそです!今日は国語の読解について、常々疑問に思っていたことがあるので、書こうかなと思います。

 その疑問はずばり、「出題者の意図を考える」という点です。

 国語の試験で、どうすればいい点数を取ればいいかと聞いたときに、「そういうときはね、出題者の意図を考えるんだよ」と言われたことがある人もいると思います。しかし、個人的にいつも疑問でした。

 出題者の意図と筆者の意図が違う場合もあるのに、なぜ出題者の意図が優先されるのか?

 実際に、筆者の意図とは異なる形が正解になることも過去にありました。今回はそんな事例から、「出題者の意図を考える」意味について考えていきましょう。

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筆者の正解が、試験の正解ではなかったケース

 こちらは一般の入試問題で起きた事です。

 『闇の中の翼たち―ブラインドサッカー日本代表の苦闘』(幻冬舎刊)という書籍が関西地方の私立中学校の入試に採用された際に、筆者である岡田仁志さんは、自分の意図とは全く違うことを「正解」にされた経験を持つと、過去語っています。

「傍線部の筆者の心情を答える問題で、『ア~エ』の選択肢をいくら読んでも、私の考えを正確に書いたものがないんです。障害者スポーツであるブラインドサッカーを観戦したシーンの心情について、『これまでは障害者は何かが出来ない人と決めつけていた』といったキレイ事の選択肢が“正解”にされていたのですが、むしろそうした教科書通りの考えを批判したくて書いたところもある本ですから、少し頭にきました。」

週刊ポスト2015年2月6日号

 このように真逆の意図が正解とされていことさえあります。では、なぜこのことが起きてしまったのでしょうか?

 「しかも問題文を精読すると、原文から一部が削除されていて、その削られた箇所というのが、まさに『筆者の心情』を端的に述べているところだったのです。問題を作る人も大変でしょうが、ちょっとやり過ぎじゃないかと思いました」

週刊ポスト2015年2月6日号

 このように筆者の心情が述べられている箇所、つまり正解の箇所を消してしまい、それを除いた形で、出題をしていたんですね。これでは、筆者の意図した正解になることは難しいでしょう。

「出題者の意図」と「筆者の意図」は必ずしも一致しない

 もともと試験に出てくる回答に関して、出題者側は逐一筆者に確認はしていないでしょう(していれば、このようなことは起こらないはずです)。したがって、正解とされる回答は筆者が意図したものではなく、出題者が「こう答えてほしい/こう考えてほしい」という意図が込められている回答なのです。

 よく「出題者の意図を読み解こう」と言われることがありますが、上記の点から考えると、試験で点数を取る上では重要な考え方です(あまりにもテクニック要素が強調されすぎていて、そこだけ独り歩きしているのは、個人的には好きではありませんが)。

 ただ「出題者の意図を読むことよりも筆者の意図を読むことが、本当の読解なのではないか」という疑問は残ります。これは、過去に問題を問いているときに、そう思っていましたし、今でもそう思っています。

 仮に正解できたとしても、勘違いしてはいけないのは、それは「出題者の意図」を把握できただけで、「筆者の意図」を把握できたわけではないことです。

一般的にも同じことが起きている:学問のすゝめ

 これを試験だけでなく、一般的に見ても同じことが起きています。例えば、皆さんは、福沢諭吉の「学問のすゝめ」の中の有名な一言をご存知でしょうか?

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

学問のすすめ(福沢諭吉):青空文庫

 この言葉は非常に有名であり、「人は皆平等なんだ」という意味で知れ渡っています。確かに、この言葉自体の意味はそのとおりですが、諭吉が言いたかったのは、むしろ逆のことだったのです。続きを呼んでみましょう。

「されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲とどろとの相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教じつごきょう』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

学問のすすめ(福沢諭吉):青空文庫

 つまり、福沢諭吉は「本来人間は平等のはずなのに、賢い人、愚かな人、貧しい人、とんだ人、身分の低い人や高い人がいて、雲泥の差がある。ではそれは何故か。それは学ぶか学ばないかの違いによるものなのだ」と言っているのです。

 「実際には平等じゃないよね。その差を埋めるためには勉強しないとだめなんだ

 これが諭吉の言いたいことです。だからこそ「学問のすゝめ」の冒頭の導入で、上記から始まっているのです。

 まさしく、筆者の意図が正しく伝わっていないケースになります。

 ※ ちなみに、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」は、アメリカの独立宣言の序文『すべての人間は、生まれながらにして平等である』を意訳して引用したものと言われており、この言葉ですら、諭吉の言葉ではありません。

出題者の意図を考える力が役に立つ場面

 とはいえ、出題者の意図を考えることには、たしかに立派な意味があります。例えば、社会人の面接で、下記のような質問を受けたとします。

Q. 大学時代頑張ったことを教えて下さい

 シンプルに答えれば、「自分はテニスを一生懸命やってきました」とかになるでしょう。しかし、相手は本当にそんなことを聞きたいのでしょうか?そこで必要なのが、相手の質問の意図です。

 例えば、下記のような職種の面接であれば、次のように相手が求める人物像に当てはまるように過去の経験から回答するのが良いでしょう。

  • 工場勤務:炎天下で 3日連続、合計9試合をこなしたこと。またその日のために体力トレーニングを継続して行ったこと(体力アピール)
  • サポートセンター:いくら野次を受けてもへこたれず、最後には勝てた試合のこと。さらに相手に野次り返したりせず、終始毅然とした振る舞いで試合を終えられたこと(精神アピール)
  • マーケティング:実力では格上の相手だったが、事前に相手の試合を分析し、ボレーが弱いことをを発見。徹底的にそこを付くパターンを 5種類生み出すために練習をし、見事大番狂わせを起こしたこと(分析アピール)

 これは、相手が聞きたいことに沿う回答を自分の経験からピックアップして話すことを意味していて、話を大きくしたり、嘘をつくこととは違います。もし、そういった経験がないなら、別の視点で回答することが必要になるでしょうし、逆に回答ができないような質問内容が多いなら、その会社には自分と合っていないということなので、さっさと見切りをつけたほうがいいでしょう。

 実際には、このようにはっきりと質問者の意図を感じるのが難しい会社の方が多いと思います。伊藤忠商事と三菱商事では欲しい人材はどう異なるか、DeNA とサイバーエージェントではどういう人を求めているだろうか…

 こういった点は、情報収集することで見えてくる場合もあります。これはまさに国語の試験問題を解くときに、選択肢だけを見て回答を選ぶのではなく、本文をしっかり読んでから解くのと同じ作業ですね。

出題者の意図を考える力自体には、大きな意味がある

 つまり出題者の意図を考えるとは、相手が何を求めているのかを察知することなのです。そういった意味で、出題者の意図を読むというのは非常に重要な力になりますし、国語の読解自体は有益です。

 ただ、個人的にはそれを筆者の意図、つまり別の本質的正解があるものの上に被せて行うのは未だに納得できていません(笑)

 どうせなら、リアルなコミュニケーションを通して相手の意図を読み取る力を鍛えていく方がいいのにな、と思っています。とはいえ、そうなった場合、「正解」を振り返るのが極めて難しいので、それはそれで難がありそうです。

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