みなさんは、ジョン万次郎という人をご存知ですか?
彼は江戸時代末期から明治にかけて活躍した日本人で、日米修好通商条約の締結に大きな功績を残し、開成学校(現在の東京大学)の英語教授にも任命され、さらには坂本龍馬など多くの幕末の著名人にも影響を与えた人物です。
そんな彼のキャリアの始まりは、漁に出かけたときに漂流してしまったところから始まります。
教科書では数行の説明で終わっているかもしれませんが、実は彼のキャリアのスタートのときには、他にも4人の漂流者がいました。しかし、その他の4名のことについては知らない人が多いでしょう。
同じスタート地点だったにもかかわらず、何が彼とその他の 4人のキャリアを分けたのでしょうか?
今回はその点に注目して、彼の半生とそこから学べることについて見てみましょう。
まずは、ジョン万次郎の生涯から見てみよう!
ジョン万次郎の生涯
貧しい漁師として生まれた万次郎
ジョン万次郎として知られている「中浜 万次郎」は、土佐の中浜(現在の高知県土佐清水市中浜)で 1827年に生まれました。
彼は貧しい漁師の家に2男3女の次男として生を受けた彼ですが、9歳のときには父親を無くし、病弱な母と兄の代わりに幼い頃から家族を養うために働いていました。
当然、寺子屋に通う余裕もなく、当時は読み書きもできなかったそうです。
14歳の時の「遭難」という転機
そんな彼に転機が訪れたのは、天保12年(1841年)14歳のときです。万次郎は仲間と共に漁に出た先で遭難してしまいます。
資料によって異なりますが 5~10日間ほど漂流した後、現在の伊豆諸島にある無人島「鳥島」に漂着します。
鳥島では、僅かな食料で耐えながら143日後、やっと万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられます。
この時彼と共に漂流したメンバーは他にも 4名いました。
・船頭の筆之丞(38歳)
・筆之丞の弟で漁撈係の重助(25歳)
・筆之丞の弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)
・もうひとりの櫓係の寅右衛門(26歳)
万次郎はこのとき最年少のメンバーだったんですね。
唯一、本土への渡米を希望した万次郎
残念ながら、このとき日本は鎖国していたため、日本に帰国することは叶わない状況でした。海外渡航禁止令が制定されており、在外者の帰国は禁止され、密帰国者は死刑に処するなど罰則があったからです。
場合によっては外国人と接触したという理由だけで死刑を受ける可能性も十分にあります。
そこで一同はアメリカに向かうことになりますが、船がハワイのホノルルに寄港したときに、万次郎を除く4名はハワイで降りており、万二郎だけがアメリカ本土に向かうことになります。
アメリカに渡った万次郎は、そこで各種の学問を学び、卒業後は捕鯨船に乗って各海を航海します。その後、ゴールドラッシュで湧いていたカリフォルニアの金鉱で帰国資金を作り、日本に向けて帰国を開始します。
万次郎は漂流から10年後、彼が24歳のときに、再び日本(現在の沖縄)に足を踏み入れます。とはいえ、すんなりと帰国できたわけではありません。
半年は琉球にて足止めされ、その後薩摩(現在の鹿児島)、長崎へと護送され、尋問を受けています。
彼が生まれ故郷の土佐に帰れたのは、なんと琉球到着から1年半後のことです。
万次郎の果たした実績
その後、彼は沢山の功績を日本に残しました。その一部をあげてみましょう
- 1853年(26歳):ペリー来航に伴う対応のため、直参の旗本の身分を与えられる
- 1856年(29歳):軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たる
- 1860年(33歳):日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、米国に渡る
- 1869年(42歳):明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命される
- 1870年(43歳):普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣される
これらは、全て貧しい漁師の家に生まれた少年が成し遂げたことです。こう見るとものすごいサクセスストーリーですね。
ちなみに、ジョン万次郎は日本だけでなく、アメリカでも有名な日本人の一人です。
特に「開国に尽力した偉人」としての評価が高く、アメリカ建国200年の際に開催された「海外からの米国訪問者展」では、29人の偉大なアメリカ訪問者として、万次郎も選出されています。
また、2010年に刊行された小説「Heart of a Samurai」が大反響を呼び、ベストセラーになったことも人気の1つです。
この書籍は日本語にも翻訳され、『ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂』というタイトルで読めますので、興味が湧いたら一読してみてください。
一緒に漂流した他の4名のその後
そんな素晴らしい功績と名声を得た万次郎ですが、万次郎と共に漂流した他の4名はどんな人生を送ったのでしょうか?
それぞれを見てみると、下記のようになっています。
・筆之丞(38歳)→ 万次郎と共に日本に帰国
・重助(25歳)→ ハワイにて病死
・五右衛門(16歳)→ 万次郎と共に日本に帰国
・寅右衛門(26歳)→ ハワイに永住
筆之丞と五右衛門は、万次郎と共に日本に帰りましたが、この2名の話を聞いたことがある人は少ないでしょう。
実は、この2名は「漁に出ないこと、異国のことを話さないこと、国を出ないこと」を言い渡され、生涯一人扶持をもらうだけで終わったとされています。
「伝蔵(筆之丞の改名後の名前)兄弟は漁や他国往来を禁じられ、藩から扶持を受けて神妙に暮らしたが、万次郎は一躍幕府の役人に取り立てられ、その新知識は日本の開国に向けて大きく貢献した。数奇な運命に翻弄された伝蔵たちであったが、この浦から船出した漂流者によって、近代日本の夜明けをもたらした。」
「筆の丞(改め伝蔵)ジョン・万次郎ら漂流出航の浦」の案内板より
一人扶持っていうのは、主君から家臣に与えられる給料一人分のことだよ。つまり「死ぬまで食わせてやるから余計なことをするな」っていう扱いだったんだね
万次郎と他2名との差を生んだ違い3選
さて、ここで1つの疑問が生じると思います。
万次郎とこの2名は同じ経験・同じ機会があったはずなのに、この差は一体どこから生まれたのでしょうか?
① ネガティブな出来事をネガティブなままにしない
私達は人生を通して多くのつらい経験をします。うまくいくことばかりではありませんし、自分に関係ないところで災難に見舞われることもたくさんあります。
けれど、ネガティブな出来事に対してどういった対応や考え方をするかで、その後の人生は大きく異なります。
万次郎はただでさえ、143日間飢えに苦しみ、やっとのことで救助されたものの、日本に帰ることは出来ない状況にありました。
もし皆さんがその状況にあったら、どういう選択をしますか?
自分だったら絶望していたと思います。助かったことに感謝こそすれ、できるだけ日本から遠いところには行きたくないので、地球の反対側にある場所より、まだアメリカ本土よりは日本と近いハワイで過ごすことを決意してしまうと思います。
けれど、万次郎はそうではありませんでした。
これはあくまで推測になりますが、万次郎はこの状況をプラスに考えたことでしょう。鎖国をしている江戸時代。海外のことを知る機会なんて、まず訪れません。ましてや万次郎はただの漁師の息子です。この先もそんな機会に恵まれることなんて万に一つも無いでしょう。
彼は、この状況を「いつか日本に帰れることを夢見る日々」にはせず、「貴重な経験として学べることを学ぶ日々」にしたわけです。
とはいえ、この時点で「アメリカで学んだことが、どう役に立つのか」なんて万次郎は分かっていなかったでしょう。そこで学んだことをどう活かすかは、あくまで自分次第だからです。
万次郎は「なんの役に立つのかわからないなら、勉強しない」という罠には一切嵌まらなかったことが分かります(この罠については別の記事で開設しているので、是非そちらもご覧になってみてください)。
② 相手の「心を動かす」
なぜ万次郎はアメリカへ向かうことにしたのか、その真相についての詳細まではわかりませんが、本人が渡米を希望したことは確かです。
とはいえ、それですんなり「はい、いいですよ」となるとは思えません。
万次郎を助けたアメリカ人船長のホイットフィールドにしてみても、わずか14歳の異国の漁師である少年を連れて行くことにメリットは無いはずです。
当時のアメリカは、江戸時代の日本と比べると排他主義が少なかったとはいえ、奴隷制度が根付いており、人種差別が普通に行われている時代です(実際万次郎は渡米後に、そうした人種差別を受けたそうです)。
ホイットフィールドにしてみても、そんな異分子を家庭に招くことは、家族全体を危機に晒す行為だったかも知れません。
けれど、ホイットフィールドは万次郎をアメリカに連れて行くだけでなく、養子として迎え入れるまでの待遇を与えてました。
なぜホイットフィールドは万次郎を受け入れたのでしょうか?
もちろん頭の良さもあると思いますが、それだけでは無いと考えるのが自然です。
他の漂流者と比べ、困難な状況であっても前に進もうとする姿勢や学ぶことへの意欲などが際立っていたことは確かでしょう。そして、万次郎は誠実で働き者であったとされています。そういった点をみて、ホイットフィールドは万次郎をアメリカに連れて行ってもいいと思ったのでしょう。
ここで「万次郎は本当にすごいな」と思うのが、そういった万次郎の行動や熱意が「言葉を超えて」相手に伝わっていることです。そのときには、まだ万次郎は英語を十分に喋れなかったでしょうから。
私達も一人で何かをすることは少なく、誰かの協力を得るために相手の心を動かし、協力して貰う必要があります。
そういったときには相手の心を動かすことが必要です。もちろん言葉も大事ですが、普段の言動や行動の蓄積などが信頼を生み、相手を動かすことに通じます。
この点は、私達が万次郎から学べる非常に重要なスキルの一つでしょう。
信頼口座の残高が万次郎はすごく高かったんだろうね。約束を守ったり、礼儀正しかったり、謙虚な行動をしていたんだと思う。逆に約束を破ったり、無礼だったり、謝れないような人だったら、ホイットフィールドの心は動かされなかっただろうね
③ 新しい「スキル」だけではなく、新しい「視点」を得る
さて、万次郎の他にも、2名はその後日本に帰国しています。確かに、この2名はアメリカ本土には行かなかったかも知れませんが、それでもハワイという異国で学べることはあったはずです。
しかし、帰ってきてからの2名は特に功績を残していません。この違いはどこにあるのでしょうか?
それは「新しい視点」の有無です。
残りの2名も英語をしゃべることは出来たでしょう。したがって「英会話」というスキルは身に付けていました。けれど、あくまでそれはスキル止まりで「世界を見る」という新しい視点までは身に着けられなかったわけです。
もし彼らがこの視点を持っていたなら、万次郎と共に行動し、後世にもっと名前が残っていたかも知れません。
幕府が万次郎に求めたのは、「英語ができる」というスキルだけではありません。当時のアメリカの状況を知りつつ、その知識から日本を見たときの視点だったのです。
一時的にアメリカスパイ疑惑をかけられ、ペリーの通訳などの通訳・翻訳業務から外されたときもありましたが、結果的には明治に入ってからも重要な任務を継続して任されていたのは、まさにこの視点があったらこそでしょう。
とくに幕末を駆け抜けた偉人たちは、新しい視点を持っている人たちばかりでした。
吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛、、、彼らは学んだこと自体だけでなく、学びを通して新しい視点で今の状況を見ることに長けていました。
現代の成功者も同様です。
コンピューターを学んだのはスティーブ・ジョブス(Apple創業)だけではありませんし、機械科を卒業してトヨタで働いたのは大野耐一(トヨタ式の確立者)だけではありません。
彼らもまた「新しい視点」の持ち主だと言えるでしょう。
もちろん、彼らほどの新しい視点を持つのは、私達には難しいかもしれません。けれど、少しの意識で新しい視点を得ることは可能です。
例えば、部活では外部のトレーニングメニューを学んで、それを取り入れてみるなども立派な新しい視点の入れ方です。さらには、自分がやっているスポーツだけでなく、他のスポーツのトレーニング方法などを学んで、取り入れられないか考えてみるのもいいでしょう。
会社に入った後は、自分の会社や業界だけを見るのではなく、他の市場や業界などを見た新たな視点を導入したりすることも重要です。
私達が生きている世界は、どんどん垣根が無くなってきています。これは情報というものがインターネットを通じて垣根を失っているからです。
だからこそ、私達は居心地の良い場所からも外に出て、いろいろな人と交流し、新たな分野に一歩を踏み出すことで「新しい視点」を得る必要があるのです。
インターネットをただ眺めているだけでは駄目だよ。結局自分がよく見ている SNS や Youtube チャンネル、ニュースサイトなど、同じ視点の情報しか入ってこなくなるから、意識して他のところを見に行くようにしないと、自然に視点が固まっちゃうからね
まとめ:チャンスを活かすも殺すも自分次第
以上見てきましたが、いかがでしょうか?
万次郎が成功したのは、間違いなく漂流という不幸から始まっています。また、不幸であっても、その機会が与えられたという意味では運が良かったとも言えます。
けれど、その運を活かせるかどうかは結局その人次第なのです。
あとで振り返ったときに「自分の人生は運が悪かった」とするか。それとも「あの時学んだことから、あの行動をして良かった」とするか。
全ては自分次第なのです。
万人に全てが平等に与えられる世界ではないからこそ、チャンスが訪れた際に積極的に行動できるようにしたいね!